市の概略

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ページ番号1001283  更新日 平成29年4月7日

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本市のあらまし、歴史、地名のルーツ、市の生い立ち、市章、市の木、市の花について説明します。

常滑市のあらまし

イラスト:市の位置


愛知県知多半島の西海岸に位置し、面積55.90平方キロメートル(平成28年10月1日現在)、東西6キロメートル、南北15キロメートル、海岸線19.8キロメートルの南北に細長い街です。
北に知多市、東に阿久比町、半田市、武豊町、南に美浜町に隣接しています。
気候は年間を通じて温暖で適度の雨量があり、海、山の幸に恵まれています。
平安時代末期ころからの「古常滑」と呼ばれる焼き物の産地として知られ、瀬戸、信楽、越前、丹波、備前と並び、日本六古窯のひとつとされ、中でも最も古く最大の規模とされています。窯業は現在も主産業になっています。窯業のほかには繊維、工業、機械金属工業、醸造業などがあります。
農業は大規模な耕地整備が進められ、野菜、果物などの栽培が盛んです。漁業も盛んで、魚の宝庫といわれる伊勢湾から多種類の魚が獲れ、のり養殖も行われています。

常滑市域の歴史

昔漁労の民が海岸沿いに、あるいは海を渡って当地に住みついたと想像されています。
市内で発見されたもっとも古い遺跡は縄文時代中期頃のものと思われる石瀬貝塚です。
平安時代末期には古常滑といわれる焼き物が生まれ、以後、焼き物の産地としてその歴史は受け継がれています。16世紀後半には大野佐治及び常滑水野の戦国小大名が現れ、特に大野佐治はすぐれた水軍を持ち、織田氏、豊臣氏等との関わりも深く4代にわたり活躍しました。また、海に面していることから海上交通がめざましい発展を遂げ、海運業が発達し、戦国時代から江戸時代には、廻船が大活躍しました。大野町には近世における廻船総庄屋・中村権右衛門の存在が知られています。
なお、中世末より常滑焼きが全国各地へ広がっていったのも、海上輸送という手助けがあったからです。
戦国時代を経て江戸時代には尾張藩の治下にあり、明治維新後は額田県に属し、明治5年からは愛知県に属しました。

「常滑」地名のルーツ

現在ではとこなめ焼の名称とともにすっかり定着した「とこなめ」ですが、この地を「とこなめ」と読むのか、「とこなべ」と呼ぶのが正しいのか紛糾した時代もありました。いずれにしろ難しい読み方でありますが、この地名のルーツをさかのぼると万葉集に「常滑」という語を詠んだ歌があり、そこでは「とこなめ」と詠んでいます。
また、地名の由来はその土壌にあるのではないかと言われています。というのも、「常」は「床」、「滑」は「滑らか」という意味で、床とはつまり地盤のこと。古くからこの地は粘土層の露出が多く、その性質が滑らかなため「とこなめ」と呼び、そうした習俗が地名として定着していったと考えられています。

市の生い立ち

昭和29年4月1日、常滑町、鬼崎町、西浦町、大野町および三和村の4町1村が合併して誕生しました。
その後、昭和32年3月31日に南部に隣接した小鈴谷町のうち、大谷、小鈴谷、広目及び坂井の4地区が市域に加わり、現在の常滑市となりました。

市章

昭和30年6月に制定。常滑市の「常」の字を画家の杉本健吉氏が図案化したもので、市民の団結と市勢の発展を表しています。

市章図

市の木「クロマツ」(マツ科、常緑高木)

みどりを育て、みどりを守り、みどり豊かな住みよい都市づくりのために、昭和49年3月に市制20周年を記念して選定されました。クロマツは、当地方で防風林や庭木などに幅広く活用され、親しまれています。

写真:クロマツ

市の花「サザンカ」(ツバキ科、常緑小高木)

緑と花のある美しい街づくりのために、アンケート調査の結果により昭和56年2月に選定されました。サザンカは、花の少ない冬期に咲き、花期は長く、強い季節風や潮風にも耐える花木です。庭木や生け垣などと用途も広く、多くの人に親しまれています。

写真:サザンカ

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